Willie May Ford Smith / マザー・スミス
彼女がいなければゴスペルが世に広まるのは10年以上遅れていたかもしれない・・・。
ウィリー・メイ・フォード・スミス(1904年6月23日 – 1994年2月2日)は、ゴスペル音楽の歴史において、その黎明期に重要な役割を果たしたパイオニアの一人です。彼女の功績は広く認識され、ニューヨークタイムズによって「20世紀で最も重要なゴスペル歌手の一人」と評されました。また、1988年には、アメリカの民族伝統芸能の芸術家に与えられる最高の栄誉である「The National Heritage Fellowship」を授与されています。
「ゴスペルの父」と称されるトーマス・ドーシーは、1000曲以上のゴスペル曲を作曲し、ゴスペル・クワイアの基準を確立しました。彼はまた、黒人アーティストが自身の著作権を管理する画期的な方法を導入したことでも知られています。これに対し、マザー・スミスは、ゴスペル音楽の特徴であるブルース感覚に溢れる自由なアドリブをさらに進化させました。彼女は、このアドリブをスピリチュアリティ(霊的感性)に根ざした、より深い宗教的意味合いを持つパフォーマンスへと昇華させたのです。
ドーシーが作ったブルース・フィーリング溢れる新しい音楽をマザー・スミスが完璧に表現したことにより、ゴスペルを真の完成に導いた
ウィリー・メイ・フォード・スミスは、ゴスペル音楽の草創期において、ブルースの手法を取り入れた革新的な歌唱法を用いることで、数多くのゴスペル歌手を指導しました。彼女の歌唱スタイルは、当時のゴスペル音楽における新しい表現の地平を開き、ジャンルの発展に大きく貢献しました。彼女は「マザー」として知られ、多くの人々に敬愛される存在となりました。
彼女の指導法は、単に技術的なスキルを伝えるだけでなく、歌い手が自らの感情やスピリチュアリティを音楽に注ぎ込むことを奨励しました。このアプローチは、ゴスペル音楽に深い感情的な豊かさと霊的な深みをもたらし、聴衆に強い共感を引き起こしました。
また、彼女はゴスペルを単なる音楽ジャンル以上のものと捉え、神への奉仕と信仰の表現として位置づけていました。そのため、彼女の音楽は、商業的な成功を追求するよりも、ゴスペルの真の精神を伝えることに重きを置いていました。
ウィリー・メイ・フォード・スミスの影響は、彼女が直接指導した多くの歌手たちによって、後のゴスペル音楽の世代へと引き継がれ、今日に至るまでその精神は受け継がれています。彼女の遺した遺産は、ゴスペル音楽の歴史において消えることのない、輝かしい光として残っています。
ウィリー・メイ・フォード・スミスは、1904年6月23日にミシシッピ州ローリングフォークで生まれました。しかし、両親の仕事の都合で、彼女はまだ幼い頃にテネシー州メンフィスへと移り住みました。彼女の幼少期は、家の裏にあった評判の悪いクラブハウスから聴こえてくるブルース音楽に囲まれて過ごしました。この環境が、彼女の音楽的才能の育成に大きな影響を与えたと言えるでしょう。若干の年齢になると、彼女は「Boll Weevil」という有名なブルース曲を歌い、クラブの常連客からお小遣いをもらうようになりました。
一方で、ウィリー・メイの両親は敬虔なクリスチャンでした。特に、父親は教会の執事を務め、彼らは彼女が歌う才能に深い愛情を注いでいました。その結果、ウィリー・メイは地元教会で歌う機会を得ることができました。しかし、20世紀初頭の黒人教会では、合唱団による讃美歌の歌唱が非常に形式的で、モーツァルトやヘンデルなどの楽曲の威厳を保つことが最も重要視されていました。宗教歌の威厳は、神への畏敬と考えられていたのです。
このような環境で、ウィリー・メイが幼少期から親しんだブルースのリズム、歌詞、メロディを用いた即興的なパーソナライズは、楽曲の威厳を損なうものとして、教会においては容認されませんでした。しかし、彼女はこの厳格な環境を乗り越え、自身の音楽性を発展させることで、後のゴスペル音楽におけるブルース感覚の導入へと繋がっていきました。
運命的なドーシーの作品との出会い
1924年、ソプラノ・ソリストとしてクラシック音楽のキャリアを真剣に考えていたウィリー・メイ・フォード・スミスは、ジェームス・スミスと結婚しました。しかし、彼女の音楽的道はすぐに大きな転機を迎えます。National Baptist Conventionで、彼女は新しいスタイルの神への賛美歌を歌う歌手に出会い、その影響を受けます。彼女がその時聴いたものは、当時まだ未完成であった新しい音楽ジャンル「ゴスペル」の原型でした。
1928年、トーマス・A・ドーシーは親友を亡くし、悲しみの中で「If You See My Savior」という曲を作曲します。これは、ブルーススタイルで神への賛美を歌った最初のゴスペル曲とされています。ドーシーはこの新しい讃美歌「ゴスペル」を売り込むために様々な努力をしましたが、初期の反応は芳しくありませんでした。特に保守的なシカゴの黒人教会では、ブルース歌手であったドーシーの受け入れが難しかったのです。
しかし1930年、スミスはセントルイスから15000人の教会員と共にシカゴで開催されたNational Baptist Conventionに参加しました。彼女は朝の礼拝集会でドーシーの「If You See My Savior」を歌い、会衆を感動させました。この歌唱がきっかけとなり、ドーシーはシカゴのピルグリム・バプテスト・チャーチで音楽監督として地位を確立し、「ゴスペルの父」としてのキャリアをスタートさせました。同時に、スミスもゴスペル・シンガーとしてのキャリアを開始しました。
ドーシーが作ったブルース風の楽曲は、スミスの自由なアプローチによって命を吹き込まれ、ゴスペル音楽が本格的に誕生しました。1931年、ドーシーはシカゴで最初のゴスペル・クワイアを立ち上げ、全米でゴスペル歌手を育成するための「the National Convention of Gospel Choirs and Choruses (NCGCC)」を設立しました。スミスはこの団体のセントルイス支部を任され、ブルースの歌い方を取り入れたスピリチュアル・メッセージを重視する指導を行いました。
スミスのこの指導は、礼拝におけるゴスペルの取り入れと発展に大きく貢献しました。彼女の影響により、エキサイティングなコール&レスポンス、熱狂的なプリーチング、そしてゴスペルの繰り返しによる現在の黒人教会の形式が形成されました。
生涯貫いた神への奉仕としてのゴスペル普及活動
ウィリー・メイ・フォード・スミスは、ゴスペル音楽の分野で指導者として大きな役割を果たしました。彼女は数多くのゴスペル・シンガーを育成し、彼らの多くは商業的にも成功を収め、レコーディングキャリアを通じて世界中にその名を広めました。しかし、トーマス・A・ドーシーが「ベッシー・スミスやマヘリア・ジャクソンに匹敵、あるいはそれ以上の才能の持ち主」と評したにも関わらず、スミス自身の商業的な知名度は長い間ほぼ無いに等しかったのです。
スミスは、ゴスペルを歌うことを礼拝の一環として捉え、報酬を目的とした公演や録音活動をほとんど行いませんでした。彼女にとって、ゴスペル音楽は神への奉仕であり、商業的な利益を追求するものではなかったのです。
1982年に公開されたドキュメンタリー映画「Say Amen, Somebody」(邦題:マザー)は、スミスとドーシーの人生とキャリアを題材にした作品です。この映画の公開により、スミスはそれまでほとんど知られていなかった層にも広く認知されるようになりました。豊中スタジオではVHS(字幕なし)でこの映画を鑑賞することができます。
投稿者
kingbee33@gmail.com