Aretha Franklin / アレサ・フランクリン
R&Bシンガーの中で、サム・クックを除けば、アレサ・フランクリンほど世のアーティストにこれほど影響を与えた人はいません。彼女はゴスペル作品をほんの少ししか録音していませんが、ゴスペルを知らない人々にとって、彼女はゴスペルの象徴であり、ゴスペル界からも日曜日の朝の礼拝で、どの教会からも歓迎される数少ないソウル・シンガーでした。
キャンディ・ステイトンやアル・グリーンのように、性的な要素を連想させる世俗的なソウル・ミュージックのキャリアを経て、ゴスペル界に戻ったアーティストには、「一度、教会を捨てた」というネガティブなイメージがつきまといます。両者ともにそれを払しょくするのに苦労しましたが、アレサの場合は、R&Bに進出したとき、彼女はキャンディやアルのように教会を離れなかったことが大きいのかもしれません。彼女はのちのインタビューでも、自分を育ててくれたのは「教会」と、クララ・ウォードやマヘリア・ジャクソンなどの「教会の母親(Church Mothers)」が彼女の声を育ててくれたといつも信じていると述懐しています。
メンフィスの天才少女
アレサは1942年3月25日にテネシー州メンフィスで生まれました。彼女の母親はゴスペル歌手であり、父親は有名な伝道師でした。アレサは幼少の頃から定期的に妹のキャロリンとエルマと一緒に、父親が立ち上げたニュー・ベセル・バプティスト教会で歌っていました。しかし、まもなくアレサは他の姉妹とは異なる特別な才能を持っていることが明らかになり、父親は彼女を講演で取り上げるようになりました。
彼女は14歳の時、最初のレコーディングを行いました。そのレコーディングは彼女の父親の教会でライブ録音されたもので、「Never Grow Old」や「Precious Lord」などの曲が収録されています。最初は地元のバトル・レコードから1,000枚だけプレスされましたが、後にチェッカーというチェス・レコードのゴスペル部門がマスターを買い取り、「Never Grow Old」として再発売しました。アレサは10代半ばの頃、シャーリー・シーザーの代役を務めたこともあります。「私はキャラヴァンズのすべてのパートを知っていました。なぜなら毎日父親の書斎のレコードプレーヤーのそばで、床に寝転がって何時間も聴いていたから。」と、アレサは回顧録で語っています。
アレサに影響を与えたアーティストたち
思春期の時、アレサは多くのアーティストに影響を受けましたが、ピアノのテクニックに強い影響を与えたのはクララ・ウォードだと彼女自身が話しています。「私はゴスペルサウンドをそれほど特別なものとして意識していなくて、他の色んな音楽を聴いていましたけど、ミス・ウォードのレコードは全部好きでした。だから彼女の歌やピアノからたくさんの技を盗みました。でもそれは彼女に憧れて彼女のようになりたいというよりは、もし彼女が将来ゴスペルをやめてしまって、彼女のピアノが聞けなくなってしまう日が来たらどうしようと真剣に悩んだ挙句に、そうなった時のために私自身が弾けるようになるべきだと思ったんです。(笑)」
アレサがヴォーカリストとして成長できた理由は、一時期彼女の家族と一緒に暮らしていたジェームズ・クリーヴランドとの影響です。クララ・ウォードと共に彼女に大きな影響を与えました。「声楽を学ぶ機会を与えてくれたのは、ほとんど彼のおかげです。彼は音楽のタイミングの感覚を教えてくれましたし、何事もタイミングが重要だと教えてくれました」と彼女は言います。彼女は、ジェームズ・クリーヴランドの装飾的な大きな和音と劇的な演出のセンスを好み、エロール・ガーナーのトレモロとイージー・スイングを融合させ、彼女の声のカデンツを際立たせることで、独自のドラマティックな演奏スタイルを作り上げました。
Queen Of Soul の誕生
ある時、アレサはテディ・ウィルソンのバンドのベーシストで、友人でもあるメジャー・ホリーに世俗的なキャリアを持つことで活動の場を広げてみてはどうかと説得されました。同時に友人でもあったサム・クックにも誘われ、ゴスペルを離れ、ポップミュージックの幅広い音楽性に触れることになります。これにより彼女はビジネスとして歌を歌うシンガーになりました。
アレサは1960年にコロンビア・レコードと契約しました。このレーベルは、彼女をジュディ・ガーランドのようなオールラウンドなエンターテイナーとして育てようとしました。 彼女はスタンダード、ショー・チューン、ブルース、そしてカバー曲まで器用に歌いこなしました。このレーベルでの彼女の録音は素晴らしいものが多かったが、まだ商業的なものにはつながらず、「ハートブレイク」や「ランニンアウト・オブ・フールズ」などのターンテーブル・ヒット(ラジオで流れたが売れなかった)や、「アイム・ノット・ア・フール」などの小さなヒットが数曲生まれただけでした。
1967年、有名なR&Bプロデューサーのジェリー・ウェクスラー(Jerry Wexler)がアレサをゴスペルのアプローチができるR&Bのスターとして育成する目的でアトランティック・レコードに移籍させました。 アレサはアトランティックですぐに成功を収め、彼女の歌は瞬く間に全国区となり、コロンビア時代のラジオでの成功とは比べ物にならない地位に昇り詰めました。
彼女は、”l Never Loved a Man (The Way I Love You) “や”Respect”、”Chain of Fools”、”Dr. Feelgood “などの骨太なサザンソウル・サウンドで成功を収めました。 このヒット曲の数々により、DJのパーヴィス・スパンはアレサ・フランクリンにQueen of Soulの称号を与え、それ以来その称号は揺るぐことの無い彼女の代名詞となりました。
アトランティックでは、彼女は自分のルーツであるゴスペルを自由に表現し、しばしばゴスペルやスピリチュアルな曲をR&Bアルバムに収録しました。 1968年のアルバム『Aretha Arrives』では、ゴスペル曲「I Ain’t Gonna Let Nobody Turn Me Around」を収録。また同年のLP『レディ・ソウル』では、カーティス・メイフィールドの “People Get Ready “を素晴らしいゴスペル・ソングとして収録しています。1970年のLP『スピリット・イン・ザ・ダーク』では、タイトル曲の他に “When the Battle Is Over “など、スピリチュアルな色合いの強い曲が収録されています。 1971年のLP『Live at Fillmore West』では、レイ・チャールズとの即興デュエットでゴスペル調にアレンジされた「スピリット・イン・ザ・ダーク」を演奏しています。
名作「アメージング・グレイス」誕生
しかし、アレサのゴスペル・ミュージックのファンは、1972年に録音された彼女の真骨頂である「Amazing Grace 」を挙げるでしょう。New Bethel の教会で録音されたこの2枚組のレコードでアレサのバックには、かつての音楽の師匠であるジェームス・クリーヴランド師が聖歌隊(南カリフォルニア・コミュニティ・クワイア)を指揮していました。
ここでの彼女は、幼少期から教会で歌っていたスタンダードなゴスペルをチョイスしています。 聴衆はアレサとジェームス・クリーブランドがピアノを交互に弾きながら繰り広げられる「Mary, don’t you weep」、「How I got over」などのスピリチュアルな楽曲に魅了されました。このLPは、R&Bと全米のトップ10に入りました。またこのアルバムはグラミー賞のベスト・ゴスペル・アルバムを受賞し、その後数年間で100万枚以上を売り上げました。
このアルバムがゴスペルミュージシャンに与えた影響は計り知れません。このアルバムの成功により、多くのレコード会社がゴスペル音楽をより真剣に取り上げるようになったからです。同時にアレサの作品の水準の高さは、多くのゴスペルアーティストの歌唱力、演奏能力の平均的な水準を高めるきっかけともなりました。
1970年代末、アレサのレコードの売り上げは低迷し、彼女のキャリアは若返りを必要としていました。クライヴ・デイヴィスはアレサをアリスタ・レコードに誘いカムバックさせました。当時売れっ子のプロデューサーだったアリフ・マーディン(チャカ・カーンの” What’cha gonna do for me “などで有名)を起用した作品はアレサのキャリアに久々の大ヒットを生み出しました。
しかし1984年に父親を亡くした後、アレサはそんな商業的成功の裏でプライベートでは様々な問題を抱えます。80年代の黒人歌手のほとんどは目まぐるしく変化する音楽制作の環境(生演奏から遠く離れたエレクトリック化)、MTVをはじめとしたプロモーション戦略の若返りへの対応に追われ疲弊していました。アレサもその一人でした。
そんな中で彼女は「Amazing Grace」に次ぐ、純ゴスペル・アルバムのレコーディングをしたいと思うようになりました。「私のファンはそれを要求しているのよ。どこに行っても、みんな私に聞いてくるの。いつゴスペル・アルバムを出すんですか?この4年間、ずっとそうだった。私自身もすぐにでもやりたかったけど、いつも別の収録があり、いつも別の写真撮影があり、いつも別のあれこれがあった。」と彼女はTotally Gospel 1988に語りました。
2枚目のゴスペル・アルバム「ONE LORD, ONE FAITH, ONE BAPTISM」
彼女はマイティー・クラウズ・オブ・ジョイのリード・ヴォーカリスト、ジョー・リゴーンや、ジャスパー・ウィリアムズ、メイヴィス・ステイプルズ、ジェシー・ジャクソン師のほか、指揮者のトーマス・ウィットフィールドといった友人たちに声をかけ、彼女の新しいアルバムを制作しました。 アレサが選んだ本物のゴスペル・シンガーがその声で彼女の新しいアルバムを輝かせています。 ワード・シンガーズの “Packin’ Up and Getting’ Go “や “Beams of Heaven “など、彼女が子供の頃に好きだった伝統的なゴスペルがレコーディングされました。
その後リリースされた2枚組LP『One Lord, One Faith, One Baptism』は、ゴスペル界に新たな旋風を巻き起こしました。アルバムはグラミー賞の最優秀ゴスペル・アルバム賞を受賞。ゴスペル・アルバム・チャートで1位を獲得し当時30万枚以上を売り上げました。
2003年にファンの要望でこのアルバムはボーナストラックを追加してCDで再発売されました。そしてその前にライノ・レコードは1999年にアルバム『アメイジング・グレイス』を全29曲を収録したCDで再発売され、ファンを喜ばせました。アレサ・フランクリンのゴスペル・ファンには嬉しい限りです。
音楽評論家たちは、しばしば上記の2作品を無視し、アレサのR&Bでの活動のみに焦点を当てて、教会を離れたとする批評が多いが、彼女は生前いつもそれを正していました。
「私は教会を離れたことはありません。」と、彼女は力強く語った。「当時も今も、私は福音を伝えているのです 」と。
投稿者
kingbee33@gmail.com