Mahalia Jackson / マヘリア・ジャクソン
多くの人々に勇気を与えた世界的ゴスペル歌手
マヘリア・ジャクソンは、20世紀を代表するゴスペルシンガーであり、彼女の影響力は音楽界だけに留まらず、テレビパーソナリティや公民権活動家としても広く知られています。1911年に生まれた彼女は、「ゴスペルの女王」として称えられ、そのブルース感あふれる表現力と力強い声は、多くのアーティストに影響を与えました。
マヘリア・ジャクソンがゴスペルの第一人者としての地位を確立した要因の一つには、彼女の音楽が持つ躍動感、尊厳、そして強い宗教的信念の組み合わせが挙げられます。また、彼女の成功は、レコードやテレビジョンの全世界的普及という時代の変化と密接に関連しています。これらのメディアの普及により、ジャクソンは以前の時代のアーティストにはなかったような広範な知名度と影響力を獲得しました。
さらに、ジャクソンは公民権運動にも深く関わっており、その活動は彼女の音楽と共に多くの人々に影響を与えました。彼女はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士の友人でもあり、彼の公演中に歌を披露するなど、公民権運動における重要な象徴的存在となりました。彼女の音楽と活動は、アメリカの文化と社会に深い印象を残し、後世にまでその影響を及ぼしています。
幼少期~シカゴでのトーマス・A・ドーシーとの出会い
マヘリア・ジャクソンはルイジアナ州ニューオリンズで生まれ、幼少期から讃美歌を歌う日常を送りました。彼女の音楽スタイルは、地域の音楽文化に根ざしており、ブルースアーティストであるベッシー・スミスやマ・レイニーの影響を受けたことも、彼女の音楽に深い色合いを与えています。家族を支えるため、中学2年生で学校を中退したジャクソンは、その後看護を学ぶために10代でシカゴに移住しました。
シカゴでは、グレーター・セーラム・バプティスト教会の聖歌隊やジョンソン・ゴスペル・シンガーズでプロとして歌う機会を得ました。1929年には「ゴスペル音楽の父」として知られる作曲家トーマスA.ドーシーとの重要な出会いがあり、その後1930年代半ばまでに教会のプログラムやバプティスト全国大会でドーシーの歌を歌いながら、彼のゴスペル音楽を普及させるための活動に14年間携わりました。
このような活動を通じて、ジャクソンはゴスペル音楽の普及に大きく貢献し、その後の彼女の音楽キャリアにも深い影響を与えました。彼女の声は、ゴスペル音楽を教会の枠を超えて一般に広める重要な役割を果たし、多くの人々に感動を与え続けました。ジャクソンの音楽は、彼女自身の信仰と経験、そして彼女が育った環境が深く結びついたものであり、その力強いメッセージは今もなお多くの人々に響いています。
ゴスペル・シンガーとしての地位を確立
マヘリア・ジャクソンのキャリアは、1946年に「Move On Up a Little Higher」を録音し、そのレコードが最終的に100万枚を超える大ヒットを記録したことで、大きな転機を迎えました。この曲の成功は、彼女をゴスペル音楽の世界でのスターダムへと導きました。1947年までには、全国バプテスト大会の公式ソリストとしての地位を確立しました。
彼女の他のミリオンセラーには、「In the Upper Room」(1952年)、「Didn’t It Rain」(1958年)、「Even Me」や「Silent Night」などがあります。彼女はキャリアを通じて約30枚のアルバムを録音し、その多くはコロムビアレコードからリリースされました。また、彼女は映画「Imitation of Life」、「St. Louis Blues」、「The Best Man and I Remember Chicago」にも出演し、その才能を広範囲にわたって展開しました。
1950年代半ばまでにジャクソンはシカゴで自身のラジオやテレビ番組を持ち、全国的な番組(エド・サリバン・ショーなど)にも頻繁に出演しました。また、彼女はシカゴにフラワーショップを所有し、コンサートアーティストとしてツアーを行う一方で、教会ではなくコンサートホールに頻繁に出演しました。
1950年にはニューヨークのカーネギー・ホールで演奏した最初のゴスペル歌手となり、1958年にはニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した最初のゴスペルアーティストとなりました。ニューポート・ジャズ・フェスティバルでの出演は、当時のアメリカ音楽界の中心であり、そこに出演することは全国的な認知と評価を得たことを意味していました。これらの成果は、彼女を世俗的あるいは商業的なゴスペル歌手と見る視点につながっているかもしれませんが、彼女の音楽と公民権運動への貢献は、そのようなレッテルを超えた深い意義を持っています。マヘリア・ジャクソンは、彼女の時代を代表するアーティストであり、彼女の音楽は今もなお多くの人々に愛されています。
マヘリア・ジャクソンと公民権運動
マヘリアを語るうえで外せないのが、やはり50~60年代における公民権運動との関わりではないでしょうか?
1956年、マーチン・ルーサー・キング牧師をはじめとする公民権運動の指導者たちはマヘリアに、集会、行進、デモに彼女の強力な声と財政的支援の両方を貸すように求めました。キング牧師の右腕であり、今もなおブラック・コミュニティにおいて大きな影響力を持つ指導者ジェシー・ジャクソン師の回顧録では「マヘリアは60年代の公民権運動において最も重要な支援者であり、キング牧師の講演の多くに同行しその力強い歌声は聴く人の心を支え、勇気づけた。彼女はキング牧師に頼まれたら、人種差別の特に厳しかった深南部の地域でさえもためらうことなく同行した。」と書かれています。
とくに有名な話としては、1963年8月23日に20万人が集まったワシントン大行進の際に、キング牧師はいつもの公民権運動用の演説を用意していましたが、直前にマヘリアが「前に地方の講演会でしたあの” 夢の話 ” をみんなに聞かせてあげて欲しい」といい、急遽変更され語られたのが、アメリカの教科書にももっとも説得力のある最高のディベートとして紹介されている「I Have A Dream」だったと言われています。キング牧師の葬儀では、彼が最も愛したゴスペル曲「Precious Lord, Take My Hand」を歌いました。「We Shall Over Come」をはじめとするこの当時の彼女の歌は、まさにFreedom Song として歴史に残っています。
愛と希望と光に満ちたゴスペル
マヘリアは幼いころに母を亡くし、幼少時代は食べるものもろくに食べられないほどの極貧生活を送りました。
歌の世界で成功し、世界的な知名度を得た後でさえも日常的な人種差別は根強く、シカゴの白人居住区に建てた自宅には銃弾が撃ち込まれるなど、彼女の人生の多くの時間は差別や苦難との戦いでした。
でもマヘリアは決してつらさや悲しみをブルースに乗せて歌うことはしませんでした。有名になってからジャズの王様デューク・エリントンにレコーディングとツアーを誘われたときにも、彼女は「私が口にするのは、神の音楽だけ」と断ったそうです。彼女は「希望」と「光」を歌う歌手でした。
私の知り合いのクリスチャン・ゴスペル・シンガーの方が「マヘリアのゴスペルはどうも商売っ気が強すぎて、私は好きになれない。だって彼女のゴスペルは礼拝の賛美を目的にしたものではないから・・」と言われたのを思い出します。
まあその人の好みだし、その人にとっての「ゴスペルはこうあるべき」という一つの意見だと思いますが、社会的最弱者であった黒人奴隷の生命や権利、そして心を支えるために歌われた黒人霊歌の役割と、マヘリアが積極的に参加した公民権運動で弱者を支え鼓舞するために歌われた「We Shall Not Be Moved(古い黒人霊歌” I Shall Not Be Moved “の主語が変わったもの)」や「How I got Over」「Precious Lord, Take My Hand」などのゴスペル・ソングが多くの人の心を支え、勇気を与えたという意味では役割は同じだと僕は思います。
こう書いてからいうのもおかしいですけど、ゴスペルに「こうあるべき」なんて役割つけるのはなんか馬鹿げています。教会の外であれ、中であれ、どのような時でも、どのような人にとっても、求められた時にすでに与えられているものこそが「ゴスペル(福音)」です。神様の恵みなんて、大抵は後で思い出したように気付くものであって、僕らがその目的や役割を決めて歌うものではないんじゃないかと思っています。
投稿者
kingbee33@gmail.com