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Albertina Walker / アルバーティナ・ウォーカー

ゴスペル人名辞典

アルバーティナ・ウォーカーは、1929年8月29日、シカゴで生まれました。幼い頃から音楽に情熱を持っており、わずか4歳のときにウェストポイント・バプティスト教会の児童合唱団で歌い始めた彼女は、シカゴのサウスサイドで育ちました。

若きアルバーティナは、「ゴスペルの女王」と称されたマヘリア・ジャクソンの歌に深く魅了され、13歳のときに勇気を振り絞ってジャクソンの自宅を訪れました。最初は門前払いされましたが、その純粋な熱意がジャクソンの心を動かし、家に招き入れられるようになりました。この出会いは、彼女の音楽キャリアに大きな影響を与えることになります。

アルバーティナの訪問は頻繁になり、彼女と同じようにマヘリアの元を訪れていたもう一人の若者がいました。それが後に「ゴスペル・クワイアの父」と呼ばれるジェームズ・クリーブランドでした。彼は歌いながらピアノを弾き、ジャクソンは彼女たちのパフォーマンスに注意深く耳を傾け、多くの貴重なアドバイスを提供しました。

伝説のグループ「キャラバンズ」誕生!

アルバーティーナ・ウォーカーのプロとしての音楽キャリアは、ロバート・アンダーソン・シンガーズへの加入とともに始まりました。しかし、彼女が加入した後、ロバート・アンダーソンはグループを引退し、それに伴いグループは解散しました。それにもかかわらず、ステート・レコード・カンパニーのスタッフはアルバーティーナの豊かなコントラルト・ヴォイスに魅了され、彼女に自分のグループを作るよう提案しました。

アルバーティーナは、ロバート・アンダーソン・シンガーズの元メンバーを集めて即席のグループを結成しました。レコード会社のアレン氏に、グループ名を聞かれたので考えた結果、メンバーの イライザ(Yancey)はインディアナ州ゲーリー、ネリー(Grace Daniels)はインディアナ州イーストシカゴ、そしてオラ・リー(Hopkins)はシカゴの端っこ、アルバーティナは反対側の端っこから来ていたことから、「旅するゴスペルグループ・・・ゴスペル・キャラバンズ」と名付けました。(のちに「キャラバンズ」となる)

1952年に結成されたキャラバンズは、1953年4月に最初のレコーディング・セッションを行いました。初期はアルバーティーナを中心としたコーラス・グループでしたが、ベッシー・グリフィンの加入とともに、グループは看板ソリストを輩出するスタイルへと変貌を遂げました。ベッシーが脱退した後、カシエッタ・ジョージが加入し、彼女もまた卓越したリード・シンガーとして活躍しました。

のちにスター・メイカーと呼ばれるほど卓越した人材発掘術

キャラバンズは、アルバーティーナ・ウォーカーの指導のもと、ゴスペル音楽界において重要な役割を果たし、多くの才能あるソリストを世に送り出しました。

1956年までに、カシエッタ・ジョージはグループを去りましたが、アルバーティーナは、キャラバンズに並外れた新しい歌手を連れてくることによって、ボーカルの才能を見つける彼女の間違いのない能力を示し続けました。

ドロシー・ノーウッドは8歳で彼女の家族で構成された「Nowood Gospel Singers」のメンバーとしてキャリアをスタートさせます。その後。ゴスペルの盛んなシカゴに移り住もうと、モリス・ブラウン大学に入学する準備をしていましたが、シカゴの最初の夜に教会で歌うマヘリア・ジャクソンの歌声を聴き、そのまま彼女に弟子入りします。(アルバーティナにしてもジェームス・クリーブランドにしても、ドロシーにしてもですが、突然押しかけて弟子入りしてしまうってすごいですね。またそれを断らずに受け入れて家に招き入れて手料理まで振る舞うマヘリアはもっとすごいですけど・・・)

そしてマヘリアを通じてドロシーとアルバーティナは知り合い、1960年ころから1964年までキャラバンズの看板シンガーとして活躍します。その後、彼女はソロとしてのキャリアをスタートさせますが、その活躍は説明するまでもなく、9つのグラミー・ノミネート、70年代のローリング・ストーンズやスティーヴィー・ワンダーのツアーへの参加など、ゴスペルだけにはとどまらない幅広い活動を行っています。

しかし本当のキャラバンズの絶頂期は、かつて「神童」または「神に選ばれ油を注がれた歌手」と呼ばれた天才ゴスペル・シンガー、シャーリー・シーザーの加入により始まったと言えます。

シャーリーは地元の教会で幼少期に「神童」と呼ばれていましたが、その後ノースカロライナ大学(現在のノースカロライナ中央大学)に入学し経営学を専攻します。学生生活を送るシャーリーはある日、キャラバンズのコンサートに参加しその歌声に魅了され、自分もこのグループに参加したいと考えます。知人であるドロシー・ラブ・コーツ(この人も超有名。のちに特集すると思います。)の仲介でシャーリーは、すでにゴスペル界のスターであったキャラバンズにソプラノで参加します。

シャーリーの歌唱法は「プリーチング(説教)スタイル」と言われています。私たちがブラック・ゴスペルを通じて当たり前のように親しむこの怒鳴っているように聞こえる激しい説教のスタイルは実はアフロ・アメリカンの民族的スタイルで、全世界的に見ればとても特徴的なものです。

前にこのブログで紹介したゴスペルの母「マザー・ウィリー・メイ」が、牧師の説教の時に会衆との間に生まれる「コール&レスポンス」に見立てて、リード・シンガーとクワイアの間に音楽的に「呼応」を生み出すスタイルを作りました。その後そのスタイルはエドナ・ガルモン・クックや、シスター・ロゼッタ・サープなどの手により発展し、シャーリー・シーザーの類まれなアーティキュレーションによって完成したと僕は勝手に思っています。(実際にシャーリーが歌いだすと、聴衆はみな立ち上がって大きな声で叫びだすというのが、キャラバンズのコンサートの目玉となっていきます。)

このようにシャーリーの加入によって、そのキャリアの頂点に達したキャラバンズは、ゴスペル界における女性コーラスというスタイルの地位を向上させ、バレット・シスターズなどの後進に多大な影響を与えましたが、1966年にソロ・キャリアをスタートさせるためにシャーリーが脱退。その後、ロリータ・ハラウェイというリード・シンガーが加入しますが、絶頂期の勢いは取り戻せず、ついに1969年にアルバーティナはキャラバンズの解散を決意します。(ちなみに最後のリード・シンガーのロリータは70年代・80年代にディスコ・クイーンとして「Love Sensation」などの大ヒット曲を出します。)

余談ですが、キャラバンズ結成当初、ジェームス・クリーブランドはピアニストとして参加していました。しかしアルバーティナは彼のカリスマ性にいち早く気づきます。レコード会社からキャラバンズのニュー・アルバムの録音の話が来た時に、彼女はジェームスがリードを取る曲を録らせてほしいと担当者に話したところ、担当は「あんなカエルみたいな声はいらない」と断られてしまいます。しかしツアーなどではジェームスの歌は聴衆の心を掴むということを何度も説明し、最後には「ジェームスの曲が入らないのであれば、アルバムの録音はしない!」と言い放ち、担当は渋々受け入れることになります。

後にジェームス・クリーブランド牧師は激しい説教による喉の酷使のため、いま知られているようなガラガラ声になりますが、彼はシンガーとしてもディレクターとしても大成し、それどころかG.M.W.Aを立ち上げ「マス・クワイア・ゴスペルの父」と呼ばれるようになります。

アルバーティナの「人の才能を発見する力」は恐るべきもので、彼女がいなくては世に出てこなかった歌手もいたでしょう。彼女が「スター・メイカー」と呼ばれる所以です。