NOW BEHOLD THE LAMB / KIRK FRANKLIN & THE FAMILY
「Now Behold the Lamb」は、クリスマスシーズンにふさわしい、スピリチュアルで感動的なゴスペルソングとして知られています。Kirk Franklinが得意とするアーバン・コンテンポラリー・ゴスペルのスタイルが特徴的で、彼の音楽の中でも特に注目される作品の一つです。この曲では、クリスマスの真の意味を強調し、イエス・キリストの誕生とその精神性を讃えるメッセージが込められています。
この曲は1995年にリリースされた楽曲で、アルバム「Kirk Franklin & the Family Christmas」に収録されています。主なリードボーカルは、その当時の「THE FAMILY」の看板ヴォーカリストTamela MannとDalon Collinsが担当しています。
実はこのアルバムはカークの中では作る予定ではなかったアルバムでした。
一作目の「KIRK FRANKLIN & THE FAMILY」がラジオDJの間で話題になり、発売からしばらくたってから「WHY WE SING?」がクリスチャン系のラジオでかかりまくって、それに続き「HE’S ABLE」や「SILVER AND GOLD」などがヒットしたことで、このアルバムはその年のゴスペル・シーンで最も売れた一枚となり予想外のロング・セールスを記録しました。
カーク自身は1stアルバムが発売当初に火が付かなかったことの焦りから、よりヒップホップ色を強めた「WHAT’CHA LOOKIN’ FOR」をすぐさま製作し、ジャケットのデザインも完成したので発表しようとした矢先に一枚目が売れ出したので、それを見たレコ―ド会社はカークの人気を定着させたくて、人気アーティストになるためのお約束である「クリスマス・アルバム」の制作を命じました。なのでこのアルバムは1995年の7月の暑い中、たった二日間でレコーディングされた商業的要素の強いアルバムとなりました。(とはいっても名盤です。カーク恐るべし!)
1行ずつ無理矢理聖書に照らした歌詞の解説
- “Now behold the Lamb”: このフレーズは、イエス・キリストを「神の小羊」として表現しています。これは新約聖書のヨハネによる福音書1章29節に由来しており、そこでは洗礼者ヨハネがイエスを指して「世の罪を取り除く神の小羊」と述べています。
- “the Precious Lamb of God”: ここでも「神の小羊」が強調されています。キリスト教では、イエスは神の子でありながら、罪のない犠牲として十字架にかけられたとされています。この表現は、旧約聖書の出エジプト記12章における過越しの小羊の犠牲にも関連があります。この小羊は、イスラエルの民がエジプトから解放されるための神の救済行為の一部でした。
- “Born into sin that I may live again”: これはキリスト教の基本的な教えである「再生」や「新生」の概念に触れています。新約聖書のローマ人への手紙6章4節では、キリストによって罪から解放され、新たな人生を歩むことができると説かれています。
- “He’s the precious Lamb of God”: 再び「神の小羊」というフレーズが使われており、イエスの犠牲的な愛と彼がもたらした救済を強調しています。新約聖書の1ペテロの手紙1章19節では、イエスを「傷も汚れもない、価値ある小羊」として言及しており、その純粋さと神聖さが強調されています。
サビにあたるこの部分はこの曲の最大のテーマです。 クリスチャンの信仰におけるイエス・キリストの中心的な役割と、彼の犠牲と救済のメッセージを象徴的に表現しています
- “Holy is the Lamb”: このフレーズは、イエス・キリストの神聖さと純粋さを強調しています。旧約聖書では、犠牲にされる小羊は罪や汚れのないものでなければならないとされており(出エジプト記12章5節)、新約聖書ではイエスがこの「完璧な犠牲」であるという概念が繰り返されています(ヘブライ人への手紙9章14節)。
- “Why you loved me so Lord I shall never know”: ここでは、神の無条件の愛と、その理解を超えた深さが表現されています。キリスト教の教えでは、神の愛は人間の理解を超えるものとされており、エフェソ人への手紙3章18-19節では、キリストの愛がいかに広く、長く、高く、深いかが語られています。
- “The precious Lamb of God”: 再びこのフレーズが繰り返され、歌詞全体を通じてイエスの役割と神の愛の深さが強調されています。
「Holy is the Lamb」の部分は、キリストの純粋さと神聖さ、そして神の無条件の愛を中心に据えています。
- “When I always didn’t do right I went left He told me to go right”: ここでは、道徳的または霊的な誤り(「左に行く」)と、神に従うこと(「右に行く」)の間の対比が描かれています。これは人間の罪と神の導きのテーマに関連し、旧約聖書の詩篇23篇3節にある「正義の道」に導く神の役割に言及しています。また、新約聖書のマタイによる福音書7章13-14節にある「狭い門」と「広い門」の比喩にも通じます。
- “But I’m standin’ right here in the midst of my tears”: この部分は、罪や困難の中にいる人間が神の存在を認識し、彼に近づこうとする様子を表しています。これは、詩篇34篇18節にある「主は心の砕けた人に近く、悔い改める霊を救う」という節に反映されています。
- “Lord I claim you to be the lamb of God”: ここでの「神の小羊」という宣言は、イエス・キリストへの信仰と信頼を表明しています。新約聖書のヨハネによる福音書1章29節で述べられている「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉に基づいています。
この歌詞のセクションは、人間の罪と失敗、神への回帰、そしてイエス・キリストを救い主として受け入れることの重要性を描いています。
- “Thank you for the Lamb The precious Lamb of God”: ここでの「神の小羊」への感謝は、イエス・キリストの犠牲と救済に対する感謝を示しています。これは、キリスト教の中心的な教えであるイエスの十字架上での犠牲と復活に対する感謝の表現です。
- “Because of your grace I can finish this race”: この部分は、神の恵み(grace)によって人間が霊的な「競走」を完走できるという概念を表しています。新約聖書の2テモテへの手紙4章7節には、「私は良い戦いを戦い、競走を完走し、信仰を守った」という表現があり、これはキリスト教徒の人生を霊的な旅として描いています。
- “The precious Lamb of God”: 再度、イエス・キリストの重要性と神聖さを強調しています。この繰り返しは、キリストの役割とその犠牲の価値を強く印象づけるためのものです。
この部分の歌詞は、キリスト教徒がイエス・キリストの恵みと導きによって人生の試練を乗り越え、霊的な成長を遂げることができるという信仰のメッセージを伝えています。
- “Even when I broke, broke your heart My sins tore us apart”: これは、罪が人間と神との関係を傷つけるというキリスト教の教えを反映しています。罪によって生じる霊的な分離は、聖書の多くの箇所で語られており、特に旧約聖書のイザヤ書59章2節では、「あなたたちの悪行があなたとあなたの神の間を隔て、あなたたちの罪が彼の顔をあなたたちから隠して、聞かないようにしている」と述べられています。
- “But I’m standin’ right here in the midst of my tears I claim you to be the lamb of God”: ここでは、罪による嘆きの中で、イエス・キリストを「神の小羊」として受け入れることで救済を求める様子が描かれています。これは、新約聖書のヨハネによる福音書1章29節で言及されている「世の罪を取り除く神の小羊」に関連しています。
- “New life can begin, yeah For you washed away, washed away every one of my sins”: この部分は、イエスを受け入れること(洗礼)を通じて罪が洗い清められ、新しい人生が始まるというキリスト教の教えを象徴しています。新約聖書の使徒行伝22章16節では、洗礼によって罪が洗い清められることが語られています。
- “Whom the Son sets free is truly free indeed I claim you to be the lamb of God”: 「御子によって解放された者は本当に自由である」という言葉は、新約聖書のヨハネによる福音書8章36節から来ており、イエス・キリストを通じて得られる真の自由を表しています。
この歌詞のセクションは、罪とその結果、神の恵みによる救済と新しい生命の始まり、そしてイエス・キリストを通じての真の自由をテーマにしています。
この曲で歌われているメッセージはゴスペルの原点ですので、僕はクリスマスに限定せず普段からレパートリーに組み込みますが、逆にクリスマスの真の意味を歌う歌という認識もあります。どっちにしても名曲ですよね。
このブログでは聖書に基づいた解説をしていますが、僕は聖職者ではなく「イチゴスペルおたく」なので、この文章に関する公的な責任は一切持ちません。個人の勝手な解釈です。ごちゃごちゃ言ってこないでくださいね。
これがきっかけで生徒さんが「買ったけどあんまり読んだことがない分厚い聖書」を手に取るきっかけとなればええんちゃうかなと思っております。
投稿者
kingbee33@gmail.com