大人の為の部活系ゴスペルSatisfy My Soul(サティマイ)です。大阪中津・豊中・神戸元町・京都・博多天神・東京高田馬場・名古屋で練習しています♪

2. ジュビリー・シンガーズの誕生

スタディルーム

2-1. フィスク大学ジュビリーシンガーズの結成背景

フィスク大学ジュビリーシンガーズは、1871年にテネシー州ナッシュビルのフィスク大学で結成されました。この大学は、南北戦争後にアフリカ系アメリカ人の教育を目的として設立された機関の一つです。経済的困難の中、フィスク大学は閉校の危機に瀕していました。この窮状を打開するため、大学の財政支援を目的として、教員のジョージ・L・ホワイトは学生たちを集め、合唱団を結成しました。彼らが選んだ歌は、アフリカ系アメリカ人の奴隷たちが受け継いできた黒人霊歌でした。この合唱団は、黒人霊歌をアメリカ国内外で演奏し、聴衆に強い感動を与え、フィスク大学の名を世界に知らしめることに成功しました。

100年以上前の貴重な録音です。3枚目に出てくる大きな教会みたいな建物は、彼らがツアーで集めた資金によって大学内に建てられた音楽堂、兼宿舎です。

2-2. アメリカ全土への旅と認知度の向上

ジュビリーシンガーズは、アメリカ全土を巡るツアーを開始しました。当初は経済的な困難と人種差別の壁に直面しながらも、彼らの演奏は徐々に評価を集め始めました。特に、1872年に行われたホワイトハウスでの演奏は大きな反響を呼び、その後のヨーロッパツアーでは、彼らはクイーン・ヴィクトリアにも謁見し、国際的な名声を獲得しました。ジュビリーシンガーズの演奏は、黒人霊歌の美しさと深さを多くの人々に伝え、アフリカ系アメリカ人の音楽と文化に対する理解と尊重を深めるきっかけとなりました。

2-3. ジュビリー音楽の国際的な影響力

ジュビリーシンガーズの成功は、黒人霊歌を基盤としたジュビリー音楽の発展に大きな影響を与えました。彼らの演奏は、音楽だけでなく、社会的なメッセージを伝える力があることを示しました。ジュビリーシンガーズによって国際的な舞台に押し出された黒人霊歌は、アフリカ系アメリカ人の歴史と文化を象徴するものとして認識されるようになり、後のジャズやブルース、ゴスペル音楽へと繋がる音楽的な基盤を築きました。ジュビリー音楽の普及により、異なる文化や人種間の架け橋としての役割を果たし、音楽を通じた相互理解と尊重の精神を広めることに貢献しました。

現在のフィスク・ジュビリー・シンガーズ

現在もフィスク・ジュビリー・シンガーズは活動を続けています。一つの大学の黒人霊歌を歌うコミュニティでありながら、テネシー州が保護する重要な芸術遺産であり、後世の若者に黒人霊歌、ジュビリー音楽を伝え残すための機関として全国各地で活動を続けています。

ワシントンD.Cのジョン・F・ケネディ・センターの舞台芸術保存プロジェクトによる録音。2010年。
フィスク・ジュビリー・シンガーズ結成150周年記念アルバムでCECE WINANS と共演。この歌、讃美歌で一番好き。

フィスク大学ジュビリーシンガーズがいかにして結成され、アメリカ国内外で大きな成功を収め、黒人霊歌およびジュビリー音楽の普及に大きな役割を果たしたかをまとめてみました。ジュビリーシンガーズの物語は、音楽が持つ絶大な力を象徴しており、音楽を通じて人々が直面する困難を乗り越え、変革をもたらすことができることを示しています。

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