2020年5月、今日を語る
今日は2020年5月12日、世の中は新型コロナウィルスが蔓延していてみんながこの先どうなるんだろうという不安な気持ちで日々過ごしています。
街では緊急事態宣言が出ているなか、それでも営業を続ける店に対して「自粛警察」を自称する市民が貼り紙をしたり脅迫めいた電話をかけたり・・。マスクをせずに公園で遊ぶ親子連れや、すぐ近くで咳払いをする人に対して冷ややかな目を通り越して憎悪の感情を持ったり・・・。これまでなら公園で遊ぶ子供たちの笑顔はどちらかと言えば未来を感じさせてくれる癒しの景色だったはず・・・。
これまでだったら「それぞれの事情や都合」を尊重することで保たれていた人間関係のバランスが、今は「自分勝手」にしか見えなくなって、裁く権利など持たないはずの人たちが逆に「自分勝手な正義」で裁きあう事件があちこちで起こっています。
ハバクク書2:3
人間というのは常に将来の不安を抱えながら時を過ごすものであり、これはいつの時代でも変わりません。旧約聖書の中にもそのような人物が書かれています。祈りを通して神と対話ができるようになり、それにより神への信仰を持つようになった預言者ハバククという人がいました。
時代は紀元前7世紀ごろ、その時代のイスラエルは南北に分断されていて北がイスラエル王国、南がユダ王国と呼ばれていました。ハバククがいたのは南のユダ王国でした。
ユダ王国の情勢は非常に緊迫したものでした。世界最強の軍隊を持つバビロニア帝国が勢力を拡大している真っ最中で、まさにいつ恐ろしいバビロニアの軍が攻め入ってくるかという状況でした。ユダ王国の民はみな、戦争になったら勝てるわけがないという絶望感と、バビロニアの支配下になった時には自分たちは奴隷となり、どれほど過酷な状況に陥るかというまったく希望の無い不安感の中で日々を送っていました。
ハバククはユダ王国の歩兵(歩哨)として見張り台に立っていました。高い見張り台からは遠くの国境線が見えます。いずれそこを恐怖の軍隊が通過するでしょう。そして足元を見ると不安と恐怖におののきながら右往左往している自国の人々の姿も見えます。
その高い見張り台の上でハバククはいつものように神に祈りを捧げます。そして祈りの中で神に問いかけます。
「私たちに救いの時はあるのでしょうか?」「私たちに助けはあるのでしょうか?」
ハバククは神の答えを待ち続けました。神を信じ、じっと神が答えるのを待ち続けました。
ほどなく神は答えました。
「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」
この「幻」というのは神の御言葉のことです。そして板に書けというのは、大事なことを人の目に触れるよう大きな掲示板に記せということのようです。
「定められた時のために、もう一つの幻がある」というのは、最終的に神の計画の中には救いのプランがあるということ。
後半を要約すると、「神は最後には必ず救いを用意している。そしてその救いの時は嘘偽りなく確実に来る。なのでもし遅いと感じたとしても、神の計画の中でそれは遅れることはないので、信じて待っていなさい。」ということになります。
「信じて待つこと」がクリスチャンの人生
上のハバクク書で言われている「終わりの時」というのは救世主イエスの誕生を指します。ですのでユダ王国のこの時代に救いを求めて祈っていた人々は、神の言う「救い」を生きているときに実感していません。彼らが求めた「救い」のための祈りは代々受け継がれ、7世紀後、イエスがこの世に生まれた時に真実のものとなります。
神が約束される「救い」は祈ったもののためにその場で用意されるものではありません。しかしそれは神の定めた時に必ず果たされる約束です。
私たちはただただそれを信じ、祈りを受け継ぎながら生きていくのです。
この世界的な困難の中、神様が私たちに救いを約束してくれていることを決して疑わず、たとえそれが自分がこの世に生きたずっと後だとしても、私たちの魂は「神を信じ、疑わずに、生きること」ですでに救われているんだと思います。
今回、この状況の中、みんなで歌う曲をあえてこの曲としたのは、ゴスペルを歌う僕たちは「希望を胸に」「疑うことなく」「今を生き抜こう」という思いを込めたいなと思ったからです。
ハレルヤ!!