生命の歌声~それがゴスペル


なぜゴスペルを歌うと心が満たされるの?

私たちは「ゴスペル」を歌うと、とても心が満たされます。

確かに「大きな声」を出すことでスカッとした気分になるのはわかりますが、歌う以外にも大きな声を出すことは日常頻繁にあります。その時には、ゴスペルを歌ったときのような感覚はありません。

歌を歌うという行為に関しても、ほかのジャンルを歌ってて、めちゃくちゃ上手く歌えた時には「達成感」や「感動」がありますが、これも質的なものとしてはゴスペルの「充足感」とは明らかに違う気がします。

じゃああのゴスペルを歌っているときのものはいったい何なのでしょうか?

[The Question is ...」という曲との出会い

ゴスペルを歌い始めて20年が過ぎました。はじめて歌った曲は「The Winans」の「The Question is 」という曲でした。

まだその時はその曲がゴスペルだという認識はなく、ただ単に「かっこいいブラック・ミュージック」だとしか思っていなくて、リード・ヴォーカルのマーヴィン・ワイナンスの歌声を真似て何度も何度も練習しました。

自分でいうのもなんですけど、「上手く歌えていた」と思います。でも録音して聴いた自分の歌はマーヴィンのものとは違いました。技術面の差も確かにあったのですが、僕が感じる「違い」はそういうものではなかった。

簡単に言うとマーヴィンの歌にはよくわからない「喜び」があり、僕の歌には同じものがまったく無いのです。

このよくわからない、彼が嬉しがっている「何か」を歌手の立場として知りたくて、僕は教会に顔を出すようになりました。クリスチャンになりたくてではなく、歌を歌ううえで足りない「何か」を知りたかったからです。

自分ではない「何か」が歌う瞬間

先にも書きましたが、「The Question is」という曲に出会い、ゴスペルを歌い始めて20年が経ちました。

僕の場合は音楽を仕事にしていますので、ゴスペルを歌う時間のほとんどが人前で歌手として、もしくはゴスペル・リーダーとして歌うためのいわゆる「練習」とそして「本番」でした。

当然、練習は本番を想定して今までの経験値や技術を駆使した形でやることがほとんどです。常に脳みそはフル回転して身体をコントロールし、その時の喉の調子や肉体的なコンディションに問いかけながら最善の「形」を探しに行きます。

でも時折、本当に稀にですが練習の最中に「どうやって歌ったのかを思い出せない」テイクが出現します。あとで録音したものを聴いても、明らかにそのテイクだけが異質で、自分が歌ったはずのものなのに涙が出るほどの躍動感と喜びが満ち溢れているのです。そしてそれは、いくら本気で再現しようと試みても現れてはくれないものです。

自分の歌なのに、どうやったのか記憶にない・・・。まるでその時だけ、何かに乗っ取られていたかのように・・・。

 

「自分」と「生命(いのち」は違うんじゃないか?

この数年、僕はそのことを考えています。「生命(いのち)」ってなんやろう?そして「自分」ってなんやろう?

いままでの考え方としては、僕という人間は「Bee芦原」であり、僕個人の「人格」や「個性」こそが僕そのものである。自分からみても他人から見てもその個性や人格には「長所」や「短所」がある。そして神様はそのすべてを愛してくれる。

本当に2年位前まではその考えが基本でしたし、クリスチャンとしても「神様とのつながり」はそのようなものだと思っていました。

だからこそ「身体が機能を停止する」=「生命の終わり」ということこそが人生における最大の恐怖で、だからこそそれにつながるすべての要因を回避することに持てる時間を費やし、それでもなお不安におびえて生きているという感じかな?

そして現在はどう思っているかというと、僕が今まで「自分」だと思っていたものは、僕がこの世に肉体をもって誕生した時からの様々な経験に基づいて「脳」の中で構築されたものであり、「人格」や「個性」もすべては経験から「脳」が決定したイメージで、その根本的な必要性は「生命の危機から自分の身を守る」という本能から生まれたもの。

でも「生命(いのち)」は実はまったく違うもので、実は神様とのつながっているのは「自分」ではなくて「生命」の方なんだと思っています。

「生命」には先に書いたような「人格」や「個性」はありません。男女の性別や肌の色もなければ見てくれもない。あるのはただただ「存在」です。神様はこの「存在する生命」をすべて平等に愛してくれるということをジーザスの流した「血」をもって「約束してくださった。

ゴスペルによく出てくる「永遠の命」という言葉。肉体の寿命には関係なく「生命」は永遠であると僕は考えます。

「自分」が歌おうとせず「生命」が喜びを歌う

「生命」の喜びは、具体的に何があったとかではなく、どう感じたかでもない。ただただ「存在」の喜び。

ゴスペルは「いのち」がそのことを神に感謝する歌声なのかと思っています。

脳みそが「神の存在」を信じているかどうかではなく、「生命」がピュアに「存在の喜び」表現する瞬間があるなら、それを認識しようがしまいがそこには「ゴスペル(福音)」がある。

僕は牧師ではないし、伝道者でもない。でも・・・たまにですが・・・僕の肉体を使って「いのち」が歌っているようです。記憶にはまったく残らないけど・・。なぜかわからない「鳥肌」だけが残ります。

いまはそんな考えを生徒さんに伝えています。

「自分で歌おうとするな。君のいのちに身体をゆだねて代わりに歌ってもらえ」

 

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